通説勢至降誕 その3

時国、夜襲で不慮の死
 それは勢至丸九歳のときであった。保延七年(1141)春三月十八日、 この久米南条稲岡の庄となり弓削に住む預所(あずかりどころ)の 明石源内武者定明(あかしのげんないむしゃさだあきら)の軍勢の夜襲であった。
 この地方の住民達は預所の役にあった定明より徳の高い時国を慕うものが多く、それを妬んだ定明は遂に漆間家に夜討ちをかけたと言われる。
 また一説には、それぞれの自分の支配下にある田圃への引き水による争いがあった、ということも考えられるのである。それにしてもこの夜討ちは全く不意のことであり、時国はこのために慮の死を遂げるのである。その時の様子を『四十八巻伝』では、

   保延七年の春時国を夜討ちにす。この子時に九歳なり。
   逃げ隠れて物のひまより見たまふに、定明庭にありて矢をはげて立てりければ、小矢をもちてこれを射る。
   定明が目の間に立ちにけり。この傷隠れなくて、事現はれぬべかりければ、定明遂電して長く当荘に入らず。
   それよりこれを小矢児と名づく。見聞の諸人感嘆せずといふ事なし。

   戦いのさなか、勢至丸は夜討ちの指揮をしている敵将定明に小弓を放し、その矢は定明の右目を射ち、射たれた定明は輩下とともに引きあげた。
   しかし、勢至丸の父時国は深手をうけ、遂に再び立つことあたわず、その臨終に一子勢至丸を枕元に呼び、
    「汝更に会稽(かいけい)の恥を思い敵人(あたひと)を恨むる事なかれ。
     これひとへに先世の宿業なり。
     若し遺恨を結ばば、そのあた世世に尽き難かるべし。
     しかじ早く俗をのがれ家をいでて、わが菩提をとぶらひ 自らが解脱を求めんには。」(『四十八巻伝』)

  と言ひて、端座して西に向ひ、合掌して仏を念じ、ねぶるがごとくして 息絶えにけり。

⇐ 通説勢至降誕 その2へ                                    通説勢至降誕 その4へ ⇒