誕生寺の文化財

◆誕生寺 会式大法要

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正式には「法然上人御両親御追恩二十五菩薩天童迎接練供養会式大法要」と称し、古く室町時代より始まり、現在、岡山県の無形文化財に指定されております。法然上人の御両親を御供養させていただく浄土宗唯一の大法要であり、日本三大練供養の1つに数えられています。 誕生寺本堂を極楽浄土にたとえ、山門手前300メートルほどに位置する六地蔵の祀られている娑婆堂を現世にたとえ、浄土門主御代理導師のもと二十五菩薩の来迎によって上人の御両親をお浄土へお迎えするという荘厳にして厳粛な儀式です。毎年上人の、父君(時国公)・母君(秦氏君)を御輪番で御供養しております。 当日は、浄土宗門徒はもちろん「病気平癒」「無苦往生」を願う人々で全国各地より多くの参拝者で賑わいます。


◆誕生寺御影堂(国重要文化財)

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二重の五間堂では、法然上人生誕の地に、開創したと伝えられる。元禄8(1695)年に再建された御影堂は正面に唐破風造の向拝を持ち、浄土宗における仏堂型本堂の中でも本格的なものとして、建築史的にも貴重な建物です。


◆清涼寺式釈迦如来立像(県重要文化財)

西日本では極めて珍しい京都・嵯峨 清涼寺式釈迦如来立像である。昭和34年(1959)岡山県重要文化財指定を受けた。

◆誕生寺山門(国重要文化財)

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正徳6年(1716)の創建。三間藥井門の形式である。棟札には願主として第16世万済とあり、その他、浄土院括道、井上院源立、念仏庵主唯念、春海専譽弁海などの名が記載され、施主は真譽実心とある。

◆津田助在衛門作 櫓時計(県重要文化財)

箱の内側墨書銘記によると天保12年(1841)11月に兵庫屋ナツという人が、秋順門信士・秋妙順信女・相譽妙好信女・釋教導信士4人の菩提を弔うために寄進したとある。正面の時を示す文字板の左上角は薄れてはっきりとは見えないが、三つ葵の紋が打ち出しされているのが分かる。

◆中将姫の黒紙名号

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縦71センチ、横32センチの大きさ。「帰命尽十方 無碍光如来」と中将姫の髪を糊で固めて作られてものである。

中将姫とは・・・藤原鎌足の曾孫、右大臣藤原豊成とその妻の紫の前の間には長い間子どもが出来ず、桜井の長谷寺の観音に祈願し、中将姫を授かる。しかし、母親は、その娘が5歳の時に世を去り、6歳の時に豊成は、照夜の前を後妻とする。中将姫は、美貌と才能に恵まれ、9歳の時には孝謙天皇に召し出され、百官の前で琴を演奏し、賞賛を受ける。しかし、継母である照夜の前に憎まれるようになり、盗みの疑いをかけられての折檻などの虐待を受けるようになる。13歳の時に、三位中将の位を持つ内侍となる。14歳の時、豊成が諸国巡視の旅に出かけると、照夜の前は、今度は家臣に中将姫の殺害を命じるが命乞いをせず、亡き実母への供養を怠らない、極楽浄土へ召されることをのみ祈り読経を続ける中将姫を家臣は殺める事が出来ず、雲雀山の青蓮寺へと隠す。翌年、豊成が見つけて連れ戻す。中将姫は『称讃浄土佛摂受経』1000巻の写経を成す。天平宝字7年(763年)、16歳の時、淳仁天皇より、後宮へ入るように望まれるが、これを辞す。その後、二上山の山麓にある當麻寺へ入り尼となり、法如という戒名を授かる。仏行に励んで、徳によって仏の助力を得て、一夜で蓮糸で『当麻曼荼羅』(『観無量寿経』の曼荼羅)を織ったとされている。宝亀6年(775年)春、29歳で入滅。阿弥陀如来を始めとする二十五菩薩が来迎され、生きたまま西方極楽浄土へ向かったとされる。

◆阿弥陀如来立像(県重要文化財)

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 胎内より「法然上人父母供養之為」「法然上人御誕生聖地」とかかれた胎内刷仏が多数発見 (誕生寺が法然上人御誕生の場所である事が証明) 桧材の寄木造り。体?は前後二材を矧ぎ、肩口より両脇を寄せ、手先を挿し矧ぎ、両足先も矧ぎ寄せる。玉眼。納衣の衣皺は複雑。来迎印を結び、裳裾は後方にた なびき、あたかも礼拝者のいる場所へ到来したかにみえる。螺髪や衣文の表現は洗練されており、鎌倉時代の様式をよく伝えている。特筆すべきは、胎内から約1000枚の摺仏(しゅうぶつ)が発見されたという点である。 このうち約40枚に墨書があった。大小二種類あり大きい方には、上人御誕生所本尊」と記載される。このことから、本像は誕生寺の旧本尊だったと見られる。 また、小さい方の摺仏は、阿弥陀如来像10体を一単位としており、「ちちのため」「うばのため」などの願文や交名が記載される。多くの人の祈りが集結した阿弥陀如来立像なのである。


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