勢至丸の誕生
その出生の時、邸宅の西の方に二またの椋の木があり、その木ずえに白い幡が二流れかかり、美しい鈴の音が天にひびいたと言われ、七日を経て流れ去ったという奇瑞が語られている。
偉人の出生の際にはいろいろな奇瑞の話があるが、法然上人もこの「両幡の椋」の伝説があるよう、将来世を担う指導者となる方であることを表しているのであろう。
誕生寺第三十二世の徳定和上作の謡曲「誕生椋」には 「いま上人の出胎に 二幡のふりしは、それは浄土門の元祖として、二尊二教の旗じるし聖浄二門の選択をなし給はんの前兆かと・・」解釈している。法然上人の弟子、熊谷蓮生がのちにこの地におとずれ、上人の出生の奇瑞の話を村人に聞き作ったという歌が
両幡の天降ります 椋の木は 世々に朽ちせぬ 法の師の跡
法然上人二十五霊場といわれる遺跡があるが、それは誕生寺が第一番にはじまり 二十五番が浄土宗総本山知恩院で終わる。その第一番札所誕生寺の御詠歌として、この歌は今もなお詠唱されている。勢至丸という幼名は勢至菩薩の名をいただいたもので、その時代、貴族の勢力が弱まり武士が力をつけ、修羅化されていく戦乱の世に、菩薩のように賢く、正しく生きてほしいという親の願いが託されていたといえよう。
このような信仰厚い家庭で育ち、勢至丸はその名の通り実に賢く、のちに「智慧第一の法然房」と呼ばれた上人の幼児期にふさわしい 成長ぶりであった。
また、ややもすれば西の方へ向いて合掌することも、しばしばと伝記は伝えている。
しかし、武士の子だけに武道も家来達におそわり、特に弓矢を好み、並ならぬ上達で人々は「小矢児」(こやちご)と呼んだと言われる。
この様な幸福の絶頂にあった、漆間一族に、勢至丸にやがて人生を転換するような不幸がおとずれるとは、誰が予期したであろう。