境内拝観・周辺案内

誕生寺御影堂(国重要文化財
二重の五間堂では、法然上人生誕の地に、開創したと伝えられる。
元禄8(1695)年に再建された御影堂は正面に唐破風造の向拝を持ち、浄土宗における仏堂型本堂の中でも本格的なものとして、建築史的にも貴重な建物です。


阿弥陀堂(瑞應殿
実心大徳によって元禄年間(1688~1704年)に建立された。
平成15年に浄土宗ご寺院をはじめ有縁の方々の協力により再建。


六地蔵 娑婆堂
山門手前300メートルに御本尊として地蔵尊を祀っている娑婆堂があります。
お堂の左右に
 1.檀陀(だんだ)地蔵       →地獄道を化す
 2.宝珠(ほうじゅ)地蔵      →餓鬼道を化す
 3.宝印(ほういん)地蔵      →畜生道を化す
 4.持地(じち)地蔵        →阿修羅道を化す
 5.除蓋障(じょがいしょう)地蔵  →人間を化す
 6.日光(にっこう)地蔵      →天道を化す
と名付けられた六地蔵を祀っている。お堂上部壁面には「賽の河原図」が施されている。

毎年4月の第三日曜に奉修されるお会式では現世、娑婆世界と仮定される。


毘沙門堂
御本尊として毘沙門天を祀っています。当寺の毘沙門天は大和國(現在の奈良県)
信貴山より勧請されたものと伝わるお木像である。毘沙門天は仏法の護法神で、
十二天の内の北方の守護神で福徳富貴の神とされる。


観音堂
初代津山城主・森 忠政公(森 蘭丸の弟)より寄進をうける。
建立は寛永8年(1631)頃と伝わる。堂内には聖観音像を祀っている。
当山第15代通誉上人が八百屋お七の供養をしたことから
別名「お七観音」とよばれている。


勢至堂(法然上人御両親御廟)
勢至菩薩を中央に安置し両脇に法然上人の両親の墓がある。
また、勢至堂の一角に法然上人産湯の井戸がある。
森大膳亮重政(森 忠政公の長男)と森忠政公養母である
大野木殿(柴田勝家の娘)の墓がある。

 

宝物館

昭和44年(1969年)新竣工された。
館内には以前に本堂に安置していた「阿弥陀如来像」(立像)や安土法論の
拝領品である「太閤釜」など数点の宝物が展示されている。

 

誕生寺周辺の案内

天台宗 岩間山 本山寺
然上人御両親祈願所
 今から1300年の昔、役の行者・小角が修行した跡といわれ、大宝元年(701)佐伯有頼がこの山で狩りをして奇瑞を感じ、出家して頼観と号し、寺を建てて新山寺と名づけた。今、金毘羅神をまつる東南の山頂である。それから五十余年後、唐の高僧・鑑真が来て、名を本山寺と改め、大いに伽藍を興したという。  長承元年(1132)稲岡ノ庄(久米南町・誕生寺)の漆間時国夫妻が、参籠して嗣子を授け給えと祈り、願いがかなって生まれた勢至丸が、後に出家して比叡山で仏教の奥義を究め、浄土宗の開祖・円光大師法然上人(源空)となったのは、有名な伝説である。

浄土宗 高貴山 菩提寺
法然上人初学の地
 奈良時代に役の行者・小角によって開創されて以来、菩提寺はさまざまな変遷を重ねてきました。宗派も法相宗(開山から114年間)、天台宗(369年間)、浄土宗(491年間)、真言宗(208年間)と移り、明治初期に再び浄土宗に復帰しています。
 明治9年、吉水祥真・吉水賢融の両師がここに立ち寄り、地元の人から安政・万延の頃のいきさつを聞きました。これが新たな復興の発端になります。 知恩院では早速、再興主任を定め、各方面に働き掛け明治10年、官許得て再興が成ったのでした。


仰叡の燈(都原)
法然上人母子訣別の地
 勢至丸(のちの法然上人)15才の時、父の遺言に從って仏道修行すべく都に旅立ったのである。
 その時見送りに来た母・秦氏と永久の訣別となったのがこの地である。最愛の一子勢至丸との別れは母にとって堪えられない悲しいものであった。
 その後も母は毎日この地に来て遠い都、比叡山で修行しているわが子勢至丸に想いを、めぐらしその無事を祈ったとつたえられている。以来、この訣別の地を誰となく「都原」と呼ぶようになった。この母の限りない慈愛の情があってこそ万民救済の道をひらかれ法然上人が生まれたと言えるであろう。(昭和57年法然上人御降誕850年をを記念して有志により碑が建立)

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